カテゴリー別アーカイブ: 日々のこと

「ペンタゴンペーパーズ」

遅ればせながらスティーブン・スピルバーグ監督の映画「ペンタゴン・ペーパーズ 情報機密文書」を観に行った。
ベトナム戦争で勝ち目がないとわかっていて(でも実際は攻め込んで、双方に大勢の死者をだした)その調査結果が書かれた機密文書ペンタゴン・ペーパーズが、内部の人の告発と新聞報道で明らかにされる事件。これを報じたワシントン・ポストの女性社長と編集長が中心のお話。

映画評論家町町山智浩さんのアメリカ流れ者(TBSラジオのコーナー)で知って、この映画をスピルバーグが他の製作中の映画を一時中断して9ヶ月という早撮りで作り上げたとか、それもトランプ政権に対する解毒剤だと言っているなんてなんというクリエイティビティの使いぷりと気になってまして。
実際はそう過激なことを言っても新聞、マスコミの役割をこうあるべきだ!と煽るわけでもなく物語は自問自答のようにじわじわと苦心しながら答えに行きつく様子が描かれるのが良かった。

そして同時にそれだけでない面も見えてきた。
ワシントンポストの女社長キャサリンは元々は父親の新聞社を伴侶が引き継ぐのだけど 彼女が45歳の時に夫は自殺。
働いたことなかったのに、新聞社の社長になる。
しかし1970年、仕事をしても男性社会で女性は低く見られて、女性の友人も女性が男性と対等に政治について話せるとも思っていない。
それでも会社は資金が苦しいの会社の株式公開に動かないと。
(どこまでも結構なプレッシャー)
子供のため、会社を遺してくれた父や夫のため、社員のため。

しかし機密文書を入手することになり、新聞に掲載すれば刑務所行きか、遺された会社も失うかもしれない。株主は手を引こうとするだろうし、親しくしてきた政府関係の友人も裏切ることになる。子供のためにもなるのか?
掲載を止める色んな声が聞こえてくる。

しかし彼女を奮い立たせるのは新聞への愛と
新聞、報道のあるべき姿勢
そしてこれ私の仕事だってこと。
あーなんて孤独で追い詰められた決断。

この時代から約40年。色んな立場で色んな女性一人一人が日々どこかでこんな決断を繰り返してきて、生き方、働き方を広げてきた。会ったこともない女性たちと彼女たちを励ました人たちの積み重ねから生まれた 今という時代の恩恵を受けて生きている。そしてこの映画は そんな今まで切り開いてきた女性への称賛とこれからさらに開拓し、今生きる女性への応援でもあるのではないかと思う。

検索して分かったのだけどこの映画の脚本にスピルバーグが出会うのが2016年秋、2017年5月から他の撮影をストップして撮影開始、11月完成、12月上映。早い!
ハリウッドのセクハラに始まるme too運動が2017年10月、今年2018年3月のアカデミー賞で主演女優賞のフランシス・マクドーマンドがスピーチでInclusion Rider(ざっくりですが私を雇うならこの映画にかかわる男女の雇用を均等にしてねって契約)を訴えた。分かりやすいニュースだけど、ある流れを感じる。

よからぬ事件もそうしようとする人もいる現実。でも制度ができるより先に、より面白い作品ができる方法で平等さの実現していこうとする動きも確実にある。
でも個人の日常で選択が確実にどこかの誰かと昔よりずっと早いスピードで繋がっていっている気がして仕方ない。

marumocci art shop

オラ・オ・ラブ

今年最初のゼラニウムが咲きました。
最初の一輪が咲いた時の ウワっとなる感じ。
普段あまり花を育てないので
毎年咲いててもびっくりする。
そしてあの色に香りに毎年ときめく。

前のブログで、樹木を育てるって
愛がこもってるようなことを書いたけれど
ほんとうかなあと・・・一回疑ってみた。
で、植木鉢に水をやるときの感覚をそれで思い出したのです。

それが以下の図のようなことになります。
図解で迫る・・・

大好きと大嫌い 
この軸で動いているわけでもない。
だからと言って無関心方向に行くわけでもない。

時々可愛いなって思うけど
四六時中でもない
あ、そろそろ土乾いてるな
水やっとこ。

オラよ。

三つの方向に向かうそれぞれの矢印の
どれでもなく、
そこらからぽかんと宙に浮いたような感じ
二次元から三次元に・・・

水だよ、おらよ

オラオラ・・

オラオラ

オラオ。ラブ・・・

ってことなんじゃないかって?

えーこのくらいだったら 
ブログをご覧の皆さまも
割と頻繁にラブ ふりまいてません?

今宵もよい夢を。


作者の妄想にあきれて三方向に祈るテノリイノリさんでした。

緑の都は 愛の都

大好きな博多華丸大吉さんが朝っぱらから「あさイチ」で生で見られるという 幸せな4月がはじまりました。チラチラくらいしか見られませんけど、彼らの良いのは とぼけたおじさんという面白さはあっても 意地悪を言って笑わせる危うさのない安心感につきます。

その上 地元びいきなネタを持ちつつも 東京に居る長さから ちゃんと東京のことも見ていて、東京という都市の中には樹木が多いということを指摘している場面がありましてね、おお、さすが!と 喜び耳だけそっちにグイイイーと向いて、手先は出かける支度を進めました。

案外地方都市の駅前なんか行くと 街路樹もちんまりしてたりってことも結構あったりしますが、東京って巨木を 眺めたいなあという気分には そこらここらで応えてくれるスポットに実は溢れています。

ある日、店の植え込みに植えた植物に気づいた?って聞かれて 全く気づかなかったことを思い出し、また それがなんとも しっくりこなくて、髪切ったのに気づいた?くらいはわかるんだけど 植物のそれの違和感は一体。。。など考えていました。

イギリスには自宅の庭を協会に認定されるとその協会の定めるオープンガーデンの期間に庭を一般の人に公開したりするイベントに参加できるというのがあると テレビ番組の特集で見て、しかもその認定されるまでの様子がずっと記録されていて、認定されなかった庭もオーナーさんの一喜一憂も含めて庭への情熱が並々ならぬもの。

植物を育てることや 、庭をしつらえていくことは 様々な要素の愛情がそこに入っていくことになり、むしろその情熱無しに成り立つものはまずない。

どんなにお金持ちでも 急にゼロから1にしたから 例えば どっかからうちの庭に巨木植えました、はい どーですかー?といかないのが自然を生活にや庭園に持ち込む難しさでもあり、そういうものを愛し続けて積み重ねる楽しさ、醍醐味ではなのではないかと思うのです。

それにそういう熱は植えた人と植物だけの関係で終わらないで 見て楽しむ他の人にも連鎖していくから面白い。

最近 新宿公園のこの角のエリアに立つケヤキが好き。

考えてみると都心の樹木は 人間の手入れがちゃんと入ってて 生活の邪魔になるようなサイズにもせず、 しっかり枝葉を伸ばしている。

あーそれにしても立派だな、君いいね〜ってジロジロ見ていると、向こうも 知ってるわって感じ。

この子らがここに居るか居ないかは この場の心地よさを激しく変えているから そりゃプライドあるだろうな。

今いいね〜って見ている対象は、今しがたの姿を愛でているのだけど、この姿になるまでの手入れをしてきた どこかの誰かのエネルギーも含めて鑑賞しているということ。それ含めてこちらの顔をそっちに向ける引力。

いい香りの人とすれ違ってつい振り返っちゃうみたいな。存在感にあふれた 街路樹に出会うたび、樹木そのものと知らず知らずのうちに人間の優しい営みにも触れているのだと思う。

テノリイノリへ その1「オラクルスナックの祈り」

昨年2017年の1月30日~2月開催しましたオラクルカード原画展『オラクルスナック「天国と極楽~ときどき地獄~」』はどこかでお話ししているかもしれませんが、タイトルコンセプトはオラクルカードのお披露目と我が父への感謝というのがありました。

自分が無事に成人するまで生きてこれたのは、下世話ですが父の稼ぎのおかげで。しかもまあ長いこと学生でデザインの勉強をしたり、外国に行かないとまずいと騒ぎたてては家族のだれ一人賛成する者もいないのに(父も一度も どの選択にも賛成したことないのに)半ば金銭をむしり取るが如く希望をかなえさせてもらったこと。そして同じ労働でも地方と都会では得られる対価がまるで違う。それなのにここまでやってもらったこと。
そこまでやってくれても、一度も自分たちの家を誰かが継がなければとか子供は?とかのプレッシャーも与えず、冗談で「ここまでかけたお金はいつ戻ってくるのかな?」とふざけて言うこともあったけど(本気にするべきだったかなあ?)何かを与えることによって人を思い通りに動かすところが一つも無かったのが自分が年をとればとるほど、これすごいことなんじゃ?と思うことが度々ありました。
そして着るものの色合いに全くダメを出さなかったのも父で(お陰ですごい自由すぎて社会になじめてませんけど)私の能力を伸ばすのに欠かせない存在への感謝です。

彼の一生のうちの仕事で好きだったのが、私が幼いころに見ていたスナックのマスター時代。夕方みんなで晩御飯を食べてから、身ぎれいにしていい香りをさせて出勤していく。その後の仕事場での印象や実家の割烹での宴会の姿も混ざっていると思うけど彼は基本言葉が少ない、声がいっぱい出てるのってカラオケの時。だけどそこに集まっているおじさんたちはいつも楽しそうで、お喋りなおじさんがいつもよく父の周りではお喋りしているのが印象的だった。
とりわけスナックって食べ物は少ないし、水割りウイスキー飲んで、カウンターにいる誰かと話す。
スナックの何がいいのか。。。
私の好きな吉本ばななさんの小説で「スナックちどり」でも書かれている
「スナックは行き場をなくした人たちの最後のよりどころなんだよ」
「私たちがいなかったら 世の中もっと悪くなってる。だから私は自分の仕事割と気に入ってるんだ。」
この二つのセリフに尽きる気がするのです。

《これまでのスナックにまつわるブログ記事》
「スナック」
「オラクルカード原画の展示がくれたもの」
「スナックにまつわるえとせとら」(吉本ばななさんの小説の話もここでも書いています)

そしてに私から見ると父はどんな仕事をしているときも仕事をしていなくても様々な社会的な立場の人たちとも関わりながら基本はスナックのマスターのような人だと思っていました。
家族に背負われながら父の顔を見にくる友人に、足腰弱ってるなら足腰鍛える器具を持って帰ればってあげたら一週間後に新聞のお悔やみに出てたと驚いたり、よくそんな亡くなるちょっと前に会いに来てた人の話は聞くので自覚は少ないけど最後に会っておきたいマスターだったのだと思う。別に何かそれがお金を生み出す仕事というわけではないけど人間には食べていく仕事と食べるだけではなくて役割としての仕事があるんだなということも一生マスターな父を見ていて思ったものです。そんな広い意味でのスナック、そしてそんな場にはいつも言葉は少なくても重い小さなや言葉や、いてくれるだけで何かがあったんだろう思う。それが私のルーツの一つという気持ちでオラクルスナックのコンセプトが出来上がっていったのです。

その父も年老いて体も不自由になったり復活したりを繰り返し、そんな役割があったりなかったり、とうとう無口で本能的な大型犬なんじゃね?一軒家で一人暮らしで即身仏にでもなる気かな?とよく冗談で母と言ってたものですが、このオラクルスナック天国と極楽の始まる数週間前のお正月、突然死んでしまいました。
妙なところで区切りますが、続きます。

3月19日-31日 「テノリ・イノリ絵巻」展
marumocci art shop

我、不完全ヲ愛ス

オリンピックで羽生選手のことを
中国の解説者の方が成句って言うのか
詩に乗せて解説したって記事にときめきまくった。
こんな記事とか
こんな記事。
『その顔は玉石のごとく、その姿は松のごとく、飛ぶ姿はオオハクチョウのようで、まるで竜が遊んでいるよう』
『運命は勇者にささやいた、嵐には逆らえないと。勇者はささやき返した、わたしが嵐だと』(記事より)

自分のモードによると思うのだけど
百人一首の解説を読むのが好きで
たまに新鮮な気持ちで読むと
ホホーーっとうれしくなる時もあるのだけど
にっちもさっちもいかないことがあったりして
ウェットな気分だとジットリ。。。。想いは重い。
そんなある日李白の「月下独酌」という
月の下で一人酒を飲む楽しさの詩が
テレビから読まれると妙にうれしくなった。
漢字で見えてくる景色に気分よくいざなわれる。
何かと中国や大陸の文化にバーンを風をもらっておりますが
今展示の準備真っ盛りで
体がゴワゴワなので一回リセットしたくなって
久しぶりに台湾からのお稽古ごとに出かけた。
(大きく書けませんが、なんとか拳の話です)

なるべく家でも一人で練習して
ちゃんと先生のところにいったらどんなに違うか知りたかったのだけど
時間を空けすぎて浦島太郎みたい。
特に人と組む組手になるとひどい。
頭でわかってるけど全く動けない。
こっち向いたらこう、って何度やっても出来ない。
ここまで出来ないって現実に直面するのって
日常あるだろうか?というくらいの間抜けっぷりに
頭がほぼほぼパニック起きているときに
いつも決してああしろこうしろ言うことのない
ものすごいジェントルな先輩に
それはもう心配の体で、
「体そっち向くとき、顔もそっちにを向いたら
攻撃来た時あぶないですよ(ニッコリ)」
そう、わたしもそうしたい(と言いたいがパンクしていて声でない)
でも「できない」(←ここだけ音声)
「か、体がこっち向けようとしたら」(顔が付いてきてしまう・・・まで言えないけど動きがそう)
結果、あまりのもどかしさに笑い死にするかと思いました。

惨憺たる時間でしたが
いつも見ていて上手な人たちは
皆同じじゃないエネルギーを発していて
同じことをしているのだけど
同じじゃない仕上がりに見える。
その時その時のベストがあって
たぶん段とか、何か新しいものを
教えてもらえる段階があると思うんだけど
ここまでいかないと今がダメとか
ここまで行けばオッケーとか
そういうことだけでやっていない感じがする。

こういうのが道の探求なのかもしれない。
そう思うと完成するってなんなんだろう
不完全ってなんなんだろうと。

人間関係でいえば 友だちの完成形ってものもない。
自分の場合、今日から友だちって契約もない。
何年も交流があって今こんな感じですねって
お互いが何か目指してきたわけでもないけど
流れ流れて付き合い方が変化してきた気がする。

恋愛もここまでくれば完成でもなくてすべて通過点だし
もしかしたら節目に振り返って
どうだったこうだったといえるのかもしれないけど
実は一人一人の中で何か理想はあるけど
すり合わせて他人とこうなっていきましょうってどこまで出来るもんだろうか。

制作に話は飛ぶけど祈りをテーマにテノリイノリの世界を展示にしていくつもりで
私にとっての祈りだって、去年のものとも違う。
あの時点の完成だと思っていたものは
通過点で、やっぱり今年は今年の完成と思しき
次の年に振り返れば不完全な点をお見せすることになると思う。

それでも今年の私が祈りに思うところ
今日の私の精一杯の道場での練習
今楽しいと思う人間関係
ただそれを死ぬまで繰り返しやっていくのだろう。
同じようで、実は全く同じでない毎回を。
不完全なことにいちいちガッカリするでもなく
ただもうそれが生きていることなのだってことで
不完全を愛するしかないっしょ。
それを幸せに感じようが感じまいが、どさくさに。

いつどこから工事が始まってどこが完成なのか分からない
完成したころにはまた新しい何かが始まってるんじゃ?と
渋谷の変わり続ける景色もそう教えてくれているような気がするよ。

3月19日~31日「テノリイノリさんはどこからきたの?(仮)」展 開催
marumocci art shop

ビーチコーミングライフ

Beach combing
海岸などに打ち上げられた漂着物を収集の対象にしたり観察したりすること

年末。軽いご挨拶がてら
うるわしのPちゃんと近況報告をしていた。
そちらはどう?
こちらは相変わらずソワソワさ
砂浜に惹かれるものを見つけては
そこを目指して進み
また次のものが目に入って進む
気がついたら 浜の端から端まで歩いていた
そんなことの繰り返しだよ
つーかそれで毎日精一杯。
あーいいね。
ビーチコーミングライフだね。

なんて調子

年明けのある日、
ふと最終日直前の富山の展示が見たくなって
朝目が覚めたら新宿まで行こうと決めた。
思い付きでとりあえず新宿まで出る途中
よく考えたら結構な風邪っぴき
翌日の予定までに都内に帰るの面倒だなー
諸事情が気になり
とりあえず新宿高速バスターミナル、バスタに向かった。

今すぐ乗れる長距離バスから
インスピレーションゲットすっか。

そうして目の前にあるたくさんの行先
そこに見つけたの千葉の地名はPちゃんの住む街。
即電話で在宅確認してみる。
まんまと滅多にない事情で午後は留守だと。
あらまあ。

明日までの都内の面白い展示あるよ
そっちは?
それは私も気になっていた展示だった。
すっかり頭から抜けてたけど。
ビーチコーミングというか、わらしべ長者感でてきた。

板橋美術館でインドの出版社タラブックスの展示、
作り手が本当に作りたい本を
小ロットで、時に手作りもしながら出版している
魅力的な展示だった。
小さな美術館はありえないくらいの盛況ぷりで。

自分にとって行ってよかったのは
ある本の中には作者自身の成長物語があったり、
ある作者は自身の師匠に
「心に浮かぶものをすべて描きなさい」って
言われたって話をしている様子(動画)を
展示を通じて見ることができたこと。

誰かにとっての真実って
それだけで素敵な物語だよ。
誰もが物語や神話の中に生きてるんだよ。

何かを成し遂げたとかそういう事でもなく。
そして人に分かられなくちゃってことでなくて
描く側が自分にとっての真実を描けているかどうかなんだわ。
ぐいぐいハートに刺さってくる
今の自分にぴったりすぎるメッセージばかりだったのだ。

その流れはA地点からC地点に行きます。
目標はC地点ですぅーというと
もうCに行くことが全てじゃなくって
Cってアウトプットすると
え?Cですか?
中間にBって素敵なとこもあるらしいよとか
思いがけない反応が出てくる。
むしろBにたどり着くために 
Cってインスピレーション来たのではないか?
またはCに行ってもBに行っても
出会う必要のある情報は同じだったかもしれない。

色々の情報をキャッチしたり
引き寄せているのは
自分の内なるもの、無意識
前兆を読み取る自分を超えた何か?
とにかく自分という人間の中にあるいくつかの私とともに
今という時間の中で
変化していく感触
即興で楽しんでいる感覚の記憶を形に残していけたら
更に楽しいな。

marumocci art shop

いつまでたってもイノリ

今日なんの偶然か、
友人が私の古いブログ記事をイイネしてくれて
つい読んでしまった。

2011年のマルモッチのキルト作品展「もしもし、わたし。今、地球にいるの」展で考えていたこと」
という記事だった。

(抜粋)
「私の気持ちはたいてい9割方怒りや不安にまみれていて
残り1割くらいが楽しい気分。
だから1割のことを忘れないようにキルトにしている。

ただ9割のネガティブだと思われる気持ちも否定しているのでなく
どんな自分にもOKを出して、
この世界もどんな自分でもOKしてくれてるよ
そんな心持ちで
1割のポジティブな感情やそれを支えている世界に
フォーカスする作業のようなものだとも思っています」
そういう話だった。

今のそこらへんの神さま絵を描くことと
あんまり変わってないあり方に吹き出しそうになった。
自分の書いた文章は年月を経ると別人の文章に見えるのだけど
方法は変われど知りたいこと
見つめてみたいことは同じなのね。

ただこの1割にフォーカスするということや
その積み重ねがより自分を楽しい世界に引き上げたり
新しい景色が見えること。
昔よりず~と実感している。

最近ハリーポッターの映画を見直しているのだけど
4作目の「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」
水の中で脱出するのに使った魔法
アセンディオ(上昇の呪文)というのがあって
心が見つけてくる神性なものを描くことは
自力で上昇する呪文を作ることにも似ている。
そして幸せな記憶で満たされることで作ることができる
エクスペクトパトローナム(守護霊よ来たれ)という呪文で
吸魂鬼(ディメンター)も追い払うことができる
そういう術の練習に似ているようにも思う。
創作の最中、出来上がったものを観ていただく最中
その空間には魔法がかかっているのだと思う。
などと熱く考えながら、
魔法の話を字幕で見ていると
黒い魔法の時に魔法って 「アーツ」って呼ばれている。
ARTってそういう意味なのよね。納得。


(コーンウォールで出会った大好きなマントヒヒ)

そしてつい古いブログのmarumocci についての紹介記事を読んでいたら(古いブログのmarumocci 記事は創作の動機とか大切にしていることを書いているのでよかったらどうぞ)
初めてキルトを習ってミシン刺繍をしている日のことが書いてあって
「キルトと出会う旅 コーンウォール編 その4」

「唐草文様をステッチした。
植物文様のつながり、
つながり、
いくらでも繋がっていきそうな文様。
この終わりない感じ
(中略)
作るというのは

この世界への祈りのようなものなのだと気づいた。 」って
ちゃんと書いてあった。

テノリイノリからでもなく
そこらへんの神さま絵からでもなく
最初っから ずうううううーっと祈ってた。

ズッコケたい気持ちでいっぱい。

そこらへんの神さま絵とは?
★ 1月4日〜20日「一人一展」
marumocci art shop

五感の見直し、ベイビードライバー


アクションもの得意ではないのですが
カーチェイスをこんなに美しいと感じるとは・・・と
初っ端からドキドキしながら感動してしまう貴重な体験をしてきましたよ
先日映画「ベイビードライバー」を観てきました。
(一応Youtubeにも動画上がってるから見ないで映画館に行ったほうが幸せです)

強盗の逃がし屋、運転手であるベイビーという青年のお話
子供時代に両親を失った交通事故が元で難聴と耳鳴りのため
四六時中イヤホンを使ってアイポッドからの音楽を聴いている。
その音楽がひたすら映画の中で流れ続けるのだけど
シリアスなシーンでも今それ!??って音楽がかかってくることで
なんだか乗り切れるような気がしたり
ああ、もうこれで殺されたら仕方ないわって
妙な諦め感が見ているこっちだけ起きてきたり
目で得られる情報に
音楽がついてくるとこんな気持ち!??って
翻弄され放題。

それに恋に落ちる相手のデボラが現れる瞬間の
彼女が口ずさむ歌も本人も可愛くて
主人公とともに恋に落ちるわよ。
(だって彼女映画「シンデレラ」のシンデレラっすよ、
一目ぼれ専用のキャラクターだわもう。ホワワ~ン)
カーアクション版ラララランドやミュージカルって呼ばれているけど
音楽がすべて心の中でほんとに響いてる音楽なので
ミュージカルっぽいいきなり感が薄いのもカッコイイ。

デボラと主人公のベイビーが仲良く一つのイヤホンで
音楽を聞く二人の様子と音楽だけが流れるシーンとか
事故のトラウマのシーンでも思うけど
映画って音と映像で全てショートカットして
「恋にオチマシター」とか
「トラウマがデキマシター」って
そういう一連の心の流れがこの短さで表現できて羨ましい。

あくまで自分の体験だけど
聴覚って楽しい音を思い出させてくれることもあれば
どっちかというと心の中のディスる声や
やめとけば?って声なんてしょっちゅう
夏の水田のカエルの大合唱級だよ。

だから思い切り外からの雑音を防ぐことで
視覚情報や指の感覚や肌触りに鋭く
集中できると感じていた。
だからベイビーのドライビングテクニックって
それってあるのかなって思ったり。
妙に納得できる感覚がある。
さすがに屋外で乗り物に乗ってはやらないけど。

どこかで書いたかもしれないけど
内的会話が始まるときに、
その音は聞こえなくなるくらい
耳から大音量でガンガンに音楽を流すというのは有効だと思い
製作の際に意図的に使っていた。

ただその時代を終え、打ち消す音を手放す瞬間というのは来て
むしろ今は先日のブログの[Por Una Cabeza]ように
脳内で音楽を自動的にかけてくれる
脳内DJが励ましの活動してくれているように思う。

なんでそんなに自分の聴覚が協力的に信じられるようになったんだろ??
って考えていたら、占いを思い出した。
占いは言葉で目の前にいる人に説明しなければ
こんな感じデースと絵にしても時間がかかりすぎる。
言葉にすることでより早く、
見えているイメージを伝えたり、
相手の感じていることをキャッチしてるよって
より早く伝えられる。
それを苦手意識があったとしても必死に言語化やってると
私が私の言葉や音を激しく信頼し始めるのだと思う。

直感・霊感的なものも大事にしているけど
日常で使いまくっている五感を
もっと丁寧に、自分がどう使っているのか
どう使いこなすことでよりハッピーでいられるのか
自分の好きな事とどんな風に連動させてみると面白いことになるのか・・・
まだまだ追及の余地があるんだなあ。

あとケビン・スペイシーの役どころもカッコイイです。
まあとにかく全部のキャラクターが素晴らしいですから是非一度
終わっちゃう前にご覧ください。

参考までにベイビードライバーについて私が有難かった情報は・・・
音楽はこちらを参照
◆菊地成孔 映画『ベイビー・ドライバー』を絶賛する
http://miyearnzzlabo.com/archives/45044
その他全般の情報は・・・
◆町山智浩 映画『ベイビー・ドライバー』を語る
http://miyearnzzlabo.com/archives/44069

marumocci art shop

Por Una Cabeza

調子よく崖っぷちを歩いていたら、
思い切り転げ落ちてやっぱり傷だらけ血だらけ
あれ?なんでこうなるの??
そういう全体的にボロボロの心の状態に気づく日もある。

そんな時でも脳内DJは音楽を流してくれることがあって
それがある時「Por una Cabeza(ポル・ウナ・カベサ) 」というタンゴの曲が流れていた。
え?今?なんでだろ、なんでだろーと思えど
口ずさんでしまうくらい。
スマホを見ればituneにも入ってるし。。。
でも元になった動機は、なんだっけ?とずっと回っていた。


気になりすぎて、ネットで検索してみたらあった!
そうじゃ映画「セント・オブ・ウーマン」じゃ。
アル・パチーノが演じる退役軍人で盲人のおじさんが
連れ立って出かけた若者が気になっている美しい女性を
いざなってタンゴを踊るシーンで使われた曲。

女性は失敗が怖いからタンゴはちょっとと断るけど
タンゴに失敗はないよとアルパチーノが誘う。
アルパチーノに誘われたいのと
アルパチーノみたいな背中になりたわ~ってのとが一緒くたになる。

私がこのシーンが好きなのは
少しぎこちないタンゴの素朴な感じに
数分かもしれないけど
人間が出会って、その時その人間たちなりに
一瞬の思いやり、他者へ親切であること、
自らが楽しむこと、
それらの儚さだったり、
形になって時に再生されていくことが詰まっていて
曲と相まって切なくて胸が締め付けられるのです。

昔惚れ込んで販売していた洋服ブランドの
20年以上前に出ていたであろうデザインの服を着た方に出会った。
その色と言い、素材の選択や縫製と言い、ああ私の好きだったあの世界
古すぎてその時代には居なかったけど
長年着てくれてありがとうって気持ちでいっぱいになった。
買ったお店も覚えていてその方のその洋服との出会いにも物語はあるし、
私もその服を見て物語がある。

洋服、形になるもの、踊り、音楽という創作物が
コンセプトだったり記憶、物語、イメージを運んだり喚起する。
そういう一つの装置にもなりうる。
だからそこに何をのせて作り続けるのか。
その時その時の瞬間でも感じる愛だったり
魂の自由さを詰め込みたいし、ずれちゃうことは譲れないんだよな。
そんなことをあれこれ考えさせられる、ここのところ。

頭をめぐるPor una cabezaにどんなに悲しんだり傷つくことがあっても、
自分で自分の魂は決して殺さず
強くたくましく生きようぜ!、それは可能なはずだぜ、
そんなメッセージを送るかのように
脳内DJは私の底力を信じ続けているのだと思う。
映画の中のアルパチーノと青年の対話のように 時々は大喧嘩かもしれないけど。

さてぼちぼち今年もクリスマス製作だ。

marumocci art shop

そういうことか


このところ体を使うことが多く
肉体疲労が激しいおかげか
(それでも不思議と元気)
はたまた新しい経験のおかげか、
あ、そうだったのか!と
いくつかの事柄がつながる瞬間があったので
備忘録的にブログに書いておこうかと。

寝てみる夢で連続して登場するモチーフの意味を
ああ、きっとこうなんだろうなと考えていたものがあった。
それは自分のためではなく、誰かのためだったり
何か違う意味があるのだろうと想像していたのだけど
ふとしたことで、この夢は全部自分のためだったのか!!
しかもそれは送られている愛の印と気づいて愕然としてしまった。

また一方で販売のお手伝いを少しすることがあり
場所柄今まで経験したことない速さの結果が出てくることに驚いている。
少し落ち着いてお話ができる状態になると
大好きな商品の前で商品とお客さんと
そこにある生活を想像し、ともに夢を見る時間がある。
器を眺め気持ちが グーンと上がり、
瞬間、手の中に納まるような器をながめているのに
小さな宇宙がそこに広がる。
そこから更に気持ちも盛り上がるし
素敵・・・ときめく~。
なんだろなあ。この感じ。
懐かしいような、新しいような。。。

あ・・・ちゅーかこれ・・・
エネルギー読みに行ってんじゃん
チャネルしてんじゃん
やっぱリーディングとヒーリングは常に同時に起きるんじゃん
知ってたけどさ。。。
占いだけでなくオーダー絵だけでなく
短い接客でも可能なんだった。
言ってしまえば、あらゆる営みがそうであることが可能なんだよな。
ええ、そうですともそうですとも。
わかっているつもりでいたものの・・・
実際に体験して心に深く刻まれる。

初めて展覧会に来て下さった方に
絵を見てスピリチュアル系の人ですか?と聞かれて
このカテゴライズが本当に苦手だけれど仕方ないと思い
ハイソーデスというのだけど、やっぱりそれだった。

あとよく眠り、よく水分をとり、腹8分以下
風呂に入るっていう日常のツール、
きつめに感じるオードトワレは状況次第で最強!