露地に出ようおっと

自分にとってこの一年で変わったことの一つに、創作以外の仕事でおっかないなあと思うメールを自宅で読む確率がうんと上がったことがある。そういうのに限ってすぐに返事すると、えらい火がついて仕事とは思えないような鬼電がかかってくるとか慎重さが求められる。

それを家で読んでしまって 一人で冷っとすると 家の中が「冷っとしたなー」って感じの空気が充満する。
オナラだったら どんな匂いが出ようと いつか消えるって長年の経験値による確信があるけど、目に見えないやつは いつ消えるのか誰も知らない。

外でどんなことがあっても家に帰るときは嘘みたいに忘れて帰れてたのに、家に居ながら 忘れて帰るところがない。
帰りたーい 帰れなーい。ここは一体どこなんだっ。

創作のための部屋と眠るための部屋を離したくて今の家に引っ越して来たのに、今度は冷っとメールとのディスタンス希望とはどうしたもんか。

家って英気を養う場、聖域。
茶でいう茶室くらい 世俗から離れた場のはずなのによ~

ま、そんなわけで思いついたのは その可能性のあるメールを読む前か、読む時かは 一回家出ること、もうなんだったら そういう可能性のある時期は家に仕事を持ち込まないことだった。

まさしく茶室への露地に一回出ることだった。
実際は家の前の路地に出てた。

背泳ぎで渡ってる

コロナ対策の3密回避と手洗いはわかるけど、それ以外の地域全体へのメッセージは具体的にわかりやすく出してくるものは大枠な詳細で、十分矛盾もはらんだメッセージ、全員に当てはめるのは なんだかなってこともある。

それに対して無視するわけでもなく、それぞれで対処しましょうなんだけど、これって これが絶対正しいですってことがなくて、家族構成も環境も、性格も体質も違う個人個人で異なる幸せとの微調整しながらうまいことやりましょ、力を抜いて・・・って結局胆力のいることだなーと思いつつ、生きてること自体が実は全部そうだったよねってところに還ってくる。


背泳ぎで 顔濡らさないで水に浮かんでいたいんだけどなーっていう時の力の入れみたく、力抜かないと浮かないし、かといって手足でコントロールも必要でほんとに力が入ってないわけじゃんってバランス。

こういう矛盾してそうなこと、答えがすぐにないことを求められるのが若い時は本当に嫌だった。白黒はっきりした正義が欲しかったなあ~w 毎回右足から出たら必ず幸せになれますみたいなルール的な。

そういうことへの諦めがついたころに、背泳ぎしながら露地に出て一旦ブレークした記憶を ぽつぽつアップしてみようかと思う。

10年前に買ったママチャリで人の少ない場所を狙ってうろつく東京の道
イチョウは 春も素敵

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