「心の傷を癒すということ」から

土曜ドラマの「心の傷を癒すということ」をNHKオンデマンドでやっと見終わった。
阪神大震災の時に心のケアのパイオニアとして活躍された精神科医の安克昌さんがモデルになったドラマでした。

震災を含めてこの時代の色んな出来事から 物を作ることと心や生き方の関係を考え続けたのが今の自分につながっているのを振り返ってしまって、4話完結のうちの3と4を一気に見てしまったら苦しくてとてもドラマの感想は書けないわ~と感じながら少しだけ関連して考えたことを。

冷静に書けるのは安医師のヘアースタイルがコンディションを上手に表してたり、最初はご本人に近づけてるんだろうなと思ってたスタイルが最後の方は役者さんの柄本佑さんの通常のヘアーに近い雰囲気になっていくけど、柄本さん自身があまりに安医師に近づいて行く様子が、準備されつくされた背景含めて全部から物語が飛び立つようですごいものを見たと思った。このことぐらい。

物語で「傷ついた人を一人にしないこと」というメッセージが含まれていてずいぶん共感されるコメントをSNSで見られたのだけど、一人にしないってことよりも現代は傷を隠さないといけない時代になってきているのかなと感じている。

傷ついた、それを隠す、それを隠したり感じなかったふりしたり我慢しているから、ほかに傷ついた人や弱い人を見かけた時に、あの人は我慢してないんだと感じて やさしくするよりより傷をつけたくなる。そんな場面が多いと感じる。

誰を一人にしないのか?
傷ついた人が見つけたにくかったり 被害者だった人が加害者になっていって、もうあの人傷つけてくるから近寄らんとこってなってしまうか、ひたすら傷つけあうのに側にいることで 孤独が加速してしまう。

安先生が途中でつぶやいた
「生きとるだけで悲しいことたくさんあんのに、なんでわざわざ人は人に悲しいことするんやろか」

心の傷なんてない、我慢すればいい、癒さないということは残念なことに、無意識でその傷の連鎖だって作り出せるのだなあとあれこれ考え始めたらこの上なく気持ちが落ちこんだ。

心を傷つけるのはそもそも震災レベルの大きな喪失、虐待やいじめだけでない。ちょっとした隣人へ意地悪な気持ちが入った言葉や行動、それでも人は傷つく。

先日ある会合に参加した時、以前自分の着ている服装についてあれこれ言われるのが辛いと嘆いてた知人が食べ合わせの話をしている最中に文脈を無視して突然私の方にに痩せる努力をしろよという意図のメッセージを吐き捨てるように言って来て、突然ナイフを突きつけられたようなショックがあった。
これ太ったことを気に病んでたら嫌なフレーズどころの騒ぎですまないのにな。気にしてなくても私の気持ちはもう会いたいなって思わないなというのが正直なところだったし、なぜあの場であの人がそれを言わないといられなかったんだろうって考えこんでしまった。

彼女が着ている服装を他者からネガティブに言われ続けて傷ついたりそれを傷ついたことにせず我慢して来た積み重ねが、体型もサイズも、服装もなんだったら生き方すらも自由そうに見える他人には怒りや批判的な気持ちがどうしようもなく湧いてくるのだろう。

とにかく今自分が出来ることは自分の心の傷は傷として、痛かったなあって受け入れたり、傷つけるものから適切な距離を持ち、心が喜ぶことを与え続けるしかないんだなって思った。安先生の奥さんが先生が亡くなったあと何年たっても「さみしい」って言葉にするように。
傷として向き合えないレベルのことはすぐじゃなくても、いつか向き合える時にケアしてあげようくらいに気長に取っておく。物語でもあったように安心して話せる相手を見つけて話を聞いてもらうのだっていい。

それぞれが自分の傷からさらに新しい他者の傷を生み出さないようケアにしていく。自らの傷に我慢するでもなく、慈しむこと。 特殊な人だけが必要だと思われがちな心のケアを どんな人も傷つけば癒しは必要だという前提。
そして向き合う辛さに踏ん張りのきく土台として、他人から見たらどんなにちっぽけなことでも自分が「喜び」と感じられるものごとを育てた畑を耕し続けることが、被害者から加害者になりうる今を生きるためにとても大事なことかも知れないと思った。

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