ロスとリアリティ

私の周りのロスに関するお話しを一つ二つ三つ・・・四つ?
なんぼ失ってきたんや!!?

年末に菊池成孔の粋な夜電波というTBSラジオの番組が突然終わってしまった。粋な電波ロス。もう日曜の朝のポカポカ陽気の中で、タイムフリーで聞く菊池さんの手荒で深すぎるくらいの愛情あふれる面白い話がない。深夜のバーミヤン情報は自分で行ってみるしかない。

そんなショックがちょっと落ち着いたところの1月後半突入、同局の「荒川強啓デイ・キャッチ」の良さに気づいたとたん、ある日の強啓さんの口調ってなんとなく聞いたことがある気がする・・って思ったら3月で25年の歴史に幕の発表。どうなってるのーこのラジオ局の方針。大事な政治、時事ネタ番組を失う。

とにかく濃いめの番組の多いTBSラジオ、その中の違う色の濃さで際立つ「久米宏ラジオなんですけど」
https://www.tbsradio.jp/333768 で、食品ロスの問題と専門家の方がゲストで出演された。もうとにかくこの番組のゲストは日常でお会いすることもなければ、ああ、そんな専門の方がいらっしゃったのか!と毎回驚きと感謝しかない。


今回は、もうすぐ恵方巻の季節、いやその前のお正月、クリスマスもロスがすごかったんだよって話。
それで久米さんが「あるとき日本人の食べ物への感覚が変わってしまった」という話があった。食べ物を粗末に扱うことへの抵抗が減ったということなのだろう。
恵方巻の中に使われいる食材一つ一つ、実は自分ひとりで生み出すことのできないものばかりだ。だからと言ってこのことをケシカラーンと言ってこの問題が解決するような気がしない。

なぜなら、この問題を加速させているのは自らの心の中にある、または隣人からの同じケシカラーンの声に他ならないからだ。(これはあくまで食品の製造をどうコントロールするのか、仕組みを考えるというのを度外視した妄想としてお読みください)

なに?売り切れ?家族に恵方巻を食べさせてあげたかったのに在庫を切らしたのかこのスーパーはケシカラーン!

なに?在庫切れ?せっかく売り上げが取れるはずだったのにケシカラーン!

今日来るお客さん、恵方巻食べたいだろな、それにこたえられないとは 自分ケシカラーン!

なに?大量廃棄した?食べものの大切さをわかってない、ケシカラーン!

あれ?もしかして私に賞味期限切れを食べさせてお腹痛くさせるつもり?ケシカラーン!

どちらを向いても、ケシカラン節なのだ。
つまり行動の原因となるのがケシカラン状態に対する恐怖。
もしくはケシカランを発する相手、自分などとの関係だけを心配しているのだ。そこに最悪なのが、ケシカランに対応するときに起きるのが、自分の人間らしさをちょいとしまい込むこと。だって、そんな理不尽な怒りに ああ、食べ物粗末にしちゃう罪悪感とかいちいち感じてたら、ケシカランと罪悪感のダブルパンチで気がおかしくなってしまう。

その上さらに私という人間の持つああしたいこうしたい、何を心地よしとしているのかを手放すことももう一つセット。さてさてどこまでロスしていくよ。
ケシカランと責められない代わりに、失われる食品、どこかにひっそり刻まれる罪悪感か、食品をなんとも思わなくなっている自分よコンニチワ、一つの生命における優先順位の混乱か。

食品ロスのことに限らず、こうしたらケシカランと言われそうなことは、何かとついつい避けられるような思考回路になりがちで、このパターンって自分のエネルギーのひたすらな無駄遣いで、他者の作り出したエネルギーも無駄に捨てている。本当に大事にされている人間は一人もいない。

そこに対抗できるのってやっぱり現実感、リアリティなのではないかと考えてしまう。
食品ロスをなくす、その意識を作るため食育が必要だとか、食物を育てる―というのもありだろう。しかし言葉というか考えを追うだけだとやっぱりこうするべき、そうしないことがケシカランに陥りやすい。

リアリティ、現実感っていうのは、実際の行動もさることながら、ああ これがあってよかったな、美味しいな、楽しいな、大切にしたいな、美しいなって感じる実際の人間の心のリアリティなのだ。
だからこういう教育を受けれ得られるでもなく、何らかの神事に参加すればそうなると確約されているのでなくて、方法は腐るほどあって、そのいずれかに心が少し触れる感じがする、だから選ぶ、選んだ先に行って経験する、その最後に感じることでリアリティを得る。何段階も先にあり、しかも結論は個々人にしかない。

然るべき自分のタイミングとそう感じられる出会いをしていくしかない。
腹が減った、飯作るかとか、ご飯食べに行こうかとか
汗かいたな、風呂入るかとか、
そのアクションの後に見える景色。
本能的な感覚に近く、習慣からははるかに遠い感覚のその先に実感するものがあって、その力が、なんだかわからないうちにロスしていく、ただただロスで終わる以上のものを与えてくれるのではないだろうか。
それこそが、さ迷いやすくてか弱く、ロスに傷つき悲しみ、ケシカランの声に弱き我々人間のロスに立ち向かう地道な方法だと考えているし、日々の生活も、作品を作ることも、心に起きる艱難辛苦のリアルな対処方法として淡々とやっていくし、 失ったラジオ番組からで菊池さんがシェアしてくれたものを受け取ったものとしては微量のポジティブな残留物を何万分の一でも、たぶん何かに乗せてシェアしていくんだろう。