本能か刷り込みか

先日武蔵野美術大学で教鞭をとられている冒険家の関野良晴さんの地球永住計画という公開講座に行ってきました。
農学者の佐藤洋一郎さんをお迎えしたの今回のテーマが「地球の境界線(プラネタリー・バウンダリー) 」だった。

詳細こちら
https://www.facebook.com/events/302918106955647/
※プラネタリー・バウンダリーとは
「その境界内であれば、人類は将来世代に向けて発展と繁栄を続けられるが、境界(閾値)を越えると、急激な、あるいは取り返しのつかない環境変化が生じる可能性がある」その境界のこと

とても興味深かったのは、今まで我々が口にしている食物は土の栄養をもらっていて中でもリン酸を肥料として得るのにリン鉱石を堀りつくしたナウル島があったことや、地球上では石油より先にリンが枯渇する説とか。
そもそも口にしたリンはどこにいくか、水洗トイレなら海に結局行くことになっていて、死んだら骨にも体重の1パーセントはリンが残ると言われているから遺体のリサイクルも一考の価値がありそうな話とか。
ひたすらに排泄物とか排出しておしまいみたいに思っていたこの肉体も地球の中に残しようによっては資源のようで、死後の魂の輪廻なんて信じられなくても嫌でも肉体を構成していた物質がこの地球上に生きているうちから廻っていた。当たり前のことなんだけど、二人が語るとものすごくリアルだった。

その中でも、うんこを見たくないとか、臭いと感じるのは本能なのか?社会や親からの刷り込みなのか?と問いがあった。

野性の肉食動物は腐った肉を食べるものがほとんどで、その匂いで見つけるのが大事だし(一部はそうでないフレッシュな肉を食べる)

でも人間は腐った肉は無理。
口から食物が入って胃液通って、胆汁を超えた辺りから汚い色になって無理なのかな?と話は進むけど、佐藤さんは胃液でもまれた食物でも無理とか話はあらゆる方向から行き、結論はあるようなないような。

世界中の民族に出会って一緒に過ごしてきた関野さんと食の文化を各地に求めてこられた佐藤さんが本能とも刷り込みとも言い切らないでいると、自分はどうだ?とモヤモヤ考え始める。

田舎に暮らしていた時代は人間の吐しゃ物なんて、ほぼ見ることはなかったので、珍しい!という気持ちが強かったんだけど、東京に暮らすようになり、シーズンごとに落ちているものが増えると、うわっと逃げたくなることが増えたことを思い出したり。

子供の頃の親のトイレの後に入っても全く嫌な気持ちにならなかった記憶がある。ああ、お父さんが入ったんだなくらいの。自分の場合は匂いに関しては後から学習して、これは良いもの悪いものと決めたり、どんな良い匂いや興味不快ものも量が増えるとあんまり良いものじゃなくなる傾向があるのかもしれないなんて考えていた。

そういうことは社会生活を送るうえでそこでじっくり立ち止まって考える暇もないし。暇がない割に情報はどんどんやってくる。
自分という人間の何がストレスであるかとか、どういうことが幸せかとか、怒涛の如くやってくる情報の中で自分の感覚によってどれだけ仕分けることができているのだろうか。

自分にとって作品を作ることは、そんな感覚の一つ一つ見直す作業でもある側面がある。
ワークショップに参加してくださる方にとっても、答えは人それぞれだし、一人ひとりの内にある感覚こそが導いてくれるものなのではないかと思う。
気持ちの悪い話を元にあれこれ考え書き連ねてしまったのですが、ワークショップは現在の五感とそれを作り上げてきた何かを探求する時間になればと思って準備しています。

★ 9月16日 五感を遊ぼう~クレパス・アート ワークショップ(初めての方)
★ 9月16日 五感を遊ぼう~クレパス・アート ワークショップ(2回目以降の方)
★ 9月16日 祈りを形に、テノリイノリワークショップ