アラジンと丸腰と水

今年の私の心を元気付ける水たちを愛でましょか・・・

cafe 清風にて
https://www.instagram.com/cafe_seifu/

Bar Omiyamaにて
https://www.facebook.com/shuboOmiyama/

TOKYO LITTLE HOUSEにて
http://littlehouse.tokyo/

先日知り合って間もない方と中華料理とともに中国茶を飲む状況があって、
その時おかわりのお茶を相手の方が注いでくれたのだけど
なぜか茶器の口のあたるところを手で思い切りつかんで、
茶を注ぐ。
器を置いてはいただけまいかと尋ねるが
「 急須の注ぎ口からお茶がこぼれるから無理」と言っては
お茶が少しでも減ろうものなら何度でも器の口を持って注ぎ入れる。
なんとも言えない気色の悪さだった。
関係性の問題かな?とも悩んだのだけど

「ドンブリに指突っ込んだオヤジのラーメン何回食わすんじゃいゴラー!」
と言うべきだったんだろうかと思っても、
ほんと距離感が近くないので冗談でも言えず、
勿論 結構です、結構ですからあーーと
抵抗したけど全く通じない。
とにかくウッカリお茶を飲み干さないことが
茶を注がれないで済む唯一の方法であり
自分のミッションになってしまった。
その後の疲労感はなんとも言えず
(神経質だとは知ってるけどさ)
結局その人とはなんとなく疎遠に。

自分にとって心地のいい人の作ったものを
口に入れたいなああ。。。
切に願った。

それで最近思う元気の出る水分のあるカフェやバーを思い出した。
好きな飲み物処は結局どんな種類のどんな飲み物が
作れるんだぞ どおーだーーってのは割とない。
ただ ここで飲むと簡単に言うと気持ちが一休みできる。

それでここの何が違うんだろうなと考えていて
最近たどりついた答えは、お店の人たちの感情が丸腰なのだ。

たとえば先日見た 映画アラジンの実写版
私の心に響いたのは 主人公のアラジンが途中 魔法で王様になって
その嘘に慣れてきたし それで現実問題どうにかしようかなーって状況から 
本当の自分の姿で戦って行くのに切り替わっていく様子。
本来の自分で困難を乗り切る方がずっと心が成長するのが見ていてよくわかる、しんどいんだけど。
目に見えない心が武器を持たない丸腰で戦うことに意味がある。

だけど現実には 偽っている自分って自分では分かりにくいし、
自分でもそういうことってあるなとぐらつく。
泣きたい時に泣いてたら大人は生きていけない
しかしそういう生きていく方法を学ぶことと、
気持ちにフタをするのは違う。

お茶やお酒を飲んだりする場の作り手さんから気づいたのは
ちゃんと仕事の顔をしつつも
弱ってる時は弱ってる時なりの頑張り
あわててる時はそれなりの頑張りで、
心にウソをついてフタをし過ぎてないで
ああ、慌ててるな、だからもう開き直ろうって決断をしたり
それぞれの人のキャパの中での決断の繰り返しの中で
その人が感じることを肯定して出来るサービスをしていること。

だからこそ私がちょっと疲れて気分転換に何かを飲みに行っても、
自分の周りの人にマイナスな気分を持って気晴らしに行ったとしても
その感情のままでもいいし
でも気分がちょっと変わったら楽しいかも~って
少しの変化を手伝ってくれる空気がある。

訪れる人にああなって!こうなって!でもなく
もちろんああなれ、こうすべきでもなく。
ただこんな心持ちで憩いの場であったらいいなを
提供し続けている。
こういうのって日常の小さいながらもパワフルで平和なお祈りのようだなと思うこのごろです。

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