オリンピックで羽生選手のことを
中国の解説者の方が成句って言うのか
詩に乗せて解説したって記事にときめきまくった。
こんな記事とか
こんな記事。
『その顔は玉石のごとく、その姿は松のごとく、飛ぶ姿はオオハクチョウのようで、まるで竜が遊んでいるよう』
『運命は勇者にささやいた、嵐には逆らえないと。勇者はささやき返した、わたしが嵐だと』(記事より)
自分のモードによると思うのだけど
百人一首の解説を読むのが好きで
たまに新鮮な気持ちで読むと
ホホーーっとうれしくなる時もあるのだけど
にっちもさっちもいかないことがあったりして
ウェットな気分だとジットリ。。。。想いは重い。
そんなある日李白の「月下独酌」という
月の下で一人酒を飲む楽しさの詩が
テレビから読まれると妙にうれしくなった。
漢字で見えてくる景色に気分よくいざなわれる。
何かと中国や大陸の文化にバーンを風をもらっておりますが
今展示の準備真っ盛りで
体がゴワゴワなので一回リセットしたくなって
久しぶりに台湾からのお稽古ごとに出かけた。
(大きく書けませんが、なんとか拳の話です)
なるべく家でも一人で練習して
ちゃんと先生のところにいったらどんなに違うか知りたかったのだけど
時間を空けすぎて浦島太郎みたい。
特に人と組む組手になるとひどい。
頭でわかってるけど全く動けない。
こっち向いたらこう、って何度やっても出来ない。
ここまで出来ないって現実に直面するのって
日常あるだろうか?というくらいの間抜けっぷりに
頭がほぼほぼパニック起きているときに
いつも決してああしろこうしろ言うことのない
ものすごいジェントルな先輩に
それはもう心配の体で、
「体そっち向くとき、顔もそっちにを向いたら
攻撃来た時あぶないですよ(ニッコリ)」
そう、わたしもそうしたい(と言いたいがパンクしていて声でない)
でも「できない」(←ここだけ音声)
「か、体がこっち向けようとしたら」(顔が付いてきてしまう・・・まで言えないけど動きがそう)
結果、あまりのもどかしさに笑い死にするかと思いました。
惨憺たる時間でしたが
いつも見ていて上手な人たちは
皆同じじゃないエネルギーを発していて
同じことをしているのだけど
同じじゃない仕上がりに見える。
その時その時のベストがあって
たぶん段とか、何か新しいものを
教えてもらえる段階があると思うんだけど
ここまでいかないと今がダメとか
ここまで行けばオッケーとか
そういうことだけでやっていない感じがする。
こういうのが道の探求なのかもしれない。
そう思うと完成するってなんなんだろう
不完全ってなんなんだろうと。
人間関係でいえば 友だちの完成形ってものもない。
自分の場合、今日から友だちって契約もない。
何年も交流があって今こんな感じですねって
お互いが何か目指してきたわけでもないけど
流れ流れて付き合い方が変化してきた気がする。
恋愛もここまでくれば完成でもなくてすべて通過点だし
もしかしたら節目に振り返って
どうだったこうだったといえるのかもしれないけど
実は一人一人の中で何か理想はあるけど
すり合わせて他人とこうなっていきましょうってどこまで出来るもんだろうか。
制作に話は飛ぶけど祈りをテーマにテノリイノリの世界を展示にしていくつもりで
私にとっての祈りだって、去年のものとも違う。
あの時点の完成だと思っていたものは
通過点で、やっぱり今年は今年の完成と思しき
次の年に振り返れば不完全な点をお見せすることになると思う。
それでも今年の私が祈りに思うところ
今日の私の精一杯の道場での練習
今楽しいと思う人間関係
ただそれを死ぬまで繰り返しやっていくのだろう。
同じようで、実は全く同じでない毎回を。
不完全なことにいちいちガッカリするでもなく
ただもうそれが生きていることなのだってことで
不完全を愛するしかないっしょ。
それを幸せに感じようが感じまいが、どさくさに。
いつどこから工事が始まってどこが完成なのか分からない
完成したころにはまた新しい何かが始まってるんじゃ?と
渋谷の変わり続ける景色もそう教えてくれているような気がするよ。