いろんなものが平等じゃん

急にワークショップの新しいアイディアができたので、そこに至る最近の出来事を綴ってみます。

それは、すべてのものが平等なんだってことでした。

あまりに平等の概念ってあいまいで、よほど理不尽な目に合ったら、もう平等じゃない!なんてムカツキながら思い出す。
外の世界ではそうだけど自分の肉体ではどうだろう。

内蔵の中で最も大切なところは?一個しかないところが大事?そんな上下、いざどこかからとめどなく出血しているとか、どこか切除しないといけない場合にならない限り、肉体のパーツパーツにそんな上下は付けられないと思っていた。

自分の場合はうっかりしていると足腰の痛みがなければ、お腹が痛かろうと、喉が腫れていようが、鼻水がたれようが足が動けるから構わないとかってところがあって、内蔵その他の訴えを結構無視することがある。同じ肉体の中でも確実にお伺いをたてるかたてないか上下がある。
右足と左足、確実に左足を酷使してしまっているし。対等、平等、等しく尊重なんて至難の業かもしれない。


そんなことを考えているとき
先日「君が君で君だ」というすごい映画を見てきた。
一人の女の子を好きになった3人の男性が10年間 彼女が好きな男になりきって(坂本竜馬、尾崎豊、ジョニーデップ)近所のアパートでただ観ているだけの10年を過ごす物語。大倉孝二さんが出るのと推薦でつい。。。

ストーカーに限りなく近い感じに愛している彼女にはちゃんと彼氏がいて、その彼氏のために彼女が借金を背負って、そこに借金取りが現れ、3人の奇妙な生活とか心のありようとか生活のイカレ具合が、向井理が演じる借金取りのお前ら何やってんの?って調子で浮き彫りにされていく。
(この眉毛もなくて不機嫌な向井理が向井理の素のようで好きです)

これが恋なのか愛なのか
そもそも好きなのか?好きとかそういうものでもないと言ってしまうし。
執着なのか?
趣味なのか・・・男同士でキャッキャするのがいいのか、もんもん通り越して、縛りあうカルト教団のようにも見える。わけがわからないような、わかるような、ただ笑えて、悲しく、切ない時間を私は2時間くらい映画館で過ごしてしまいました。

これを観ていて思ったのが、自分にある感情を大事にしているのか!?ということ。
言葉にできようができまいが。
この感情は良くない感情だから早く手放して(いやそうそうできないから蓋をする)、この感情は良い感情だから大丈夫とか、今の今の価値観で判断している。それってどうなんだ?浅はかなんじゃないか?そう思えてきたのだ。
どんな感情も感情に過ぎず、それ以上もそれ以下もない。現実に対した時に暑ければ汗をかくような反応、ただ体験する。乱暴な見方かもしれないけど、そんなものなのかもしれない。どんな喜びも悲しみも。そう一度並べ替えしてみたらどうなんだ?という気になっていた。

続きます・・・

9月16日 五感を遊ぼう~クレパス・アート ワークショップ 《初めての方》
9月16日 五感を遊ぼう~クレパス・アート ワークショップ 《2回目以降の方》

9月16日 祈りを形に、テノリイノリワークショップ