箸休め、祈りにまつわる2つの映画

テノリイノリができるまでのことを綴っていますが
ここで少し休憩して祈りが登場する映画を。

あるとき祈りって神社でお願いごとをするような祈りじゃないの?
そんでテノリイノリって願いを叶える道具なんじゃ?という質問がありまして。
一切そんなメッセージを出していなかったのだけど
そういう受け取りもあるのかと思ってちょっと寄り道を思いつきました。

前回のブログ、亡き人のとその周りの存在に対するものへの祈りは
言葉にしてしまうとあちらの世界で彼らが安らかでありますようにとか
無事に向こうの道を進みゆくことができますようにだったり
音楽でいうところのレクイエム的なものではないかと思って
祈っていたと思うのです。

で。早速ですが2018年日本公開の2つの映画について
ここでの祈りはまた少し違います。

「愛の動機となりますように
平和の道具となれますように」

セバスティアン・レリオ監督映画「ナチュラルウーマン」
アカデミー賞 外国語映画賞おめでとうございます!

この祈りの言葉、聖フランチェスコの祈りは
映画ナチュラルウーマンの中で聞きました。

祈りの言葉は本来もっと長いのですが
ここまでのセリフだった記憶。

クリントイーストウッド好きだし、映画評論家の町山智浩さんがツイッターでひっそりと
監督の『15時17分、パリ行き』
「ナチュラルウーマン」(英題:Fantastic woman)
共通するのは、聖フランチェスコの祈りと紹介されていたので
それもあって早々と両方観に行ってきました。

それぞれに感想がありますがあくまで祈りにまつわるところを。
『15時17分、パリ行き』での聖フランチェスコの祈りは
私が元々自分としても納得いきやすいタイミングの祈りでした。
カトリックの学校で育つ主人公が幼いころから捧げる祈りで
それが結末に影響していく、自身の行動を導くような祈り。

そしてナチュラルウーマンの中では大人の主人公が
悲しみ、苦しみ、自分を見失ってもおかしくないくらい
全部が否定されてしまうような過酷な人生の真っ最中に
愛の正解を探している主人公に向けられるヒントとなる祈りの言葉だと私は受け取りました。

でもそれは、人生右に行きましょうか
左に行きましょうか?そんな選択肢も見いだせない。
ああ。どこに行けばいいのでしょう??って途方にくれている側で
いきなり脇腹にドーンとパンチを入れられ目から火が出るような祈りで
なぜかその瞬間に涙があふれてしまった。
自分にそのパンチが入れられて、有難いような辛いような感触。

泣きながら、傷ついた傷からから再び血が流れようが
自身本来の本当に願う生き方に外れたら戻し、進めようと
自分自身を超えた存在に宣言する
そういうスタンスの祈りが
今年の自分の作りだしたいテノリイノリの要素にはあるのだと思う。
ハードな祈りだとしても、ハードな日があったとしても
テノリイノリは軽やかに優しく
ともにい続けるものでありたいと願うのです。

それはまるで映画の中で歌われる
プラタナスの木陰への愛の オンブラ・マイ・フ(Ombra mai fù)のように。

連載中の「テノリイノリへ」過去記事
テノリイノリへ その1「オラクルスナックの祈り」
テノリイノリへ その2「伏線の回収」
テノリイノリへ その3 「祈りの絵」

3月19日-31日 「テノリ・イノリ絵巻」展